田中さんは、戦後の大きな時代変化のなかで、
日本で初めてのフィットネスクラブを設立された方で
「日本の健康産業の第一人者」として知られています。
今回は商売がうまくいくなかで、
アメリカに関心を持ち、渡米するまでについて述べられています。
高度経済成長による日本の変化
昭和30年頃から45年頃までは高度経済成長の時代です。
戦争の時ほどではないにしろ、日本が大きく変わった15年でした。
都市部には木造家屋から鉄筋コンクリートの建物に変わり、
道路も土からアスファルトに舗装がされました。
各家庭でもテレビや洗濯機、冷蔵庫のいわゆる「三種の神器」が普及したのです。
経済成長率の観点から見ると年平均の名目成長率は15・4パーセントで、
当時二位のドイツでも10・3パーセントでしたから、
世界が瞠目する経済成長でした。
この経済成長の背景には、池田勇人首相の「所得倍増計画」がありましたが、
一般庶民が豊かな生活を求めるエネルギーが大きな原動力となりました。
一般の庶民は懸命に働き、住宅や「三種の神器」の購入を目標に貯金をしました。
貯金によって銀行に集められたお金は、
企業の設備投資や最新技術導入の資金となり、
雇用の拡大とコストダウンがなされたのでした。
こうした好循環が、豊かな消費社会を実現させました。
テレビを例に挙げてみましょう。
昭和28年にテレビ放送がスタートしましたが、
この時は一台19万円でした。
大卒銀行員の初任給が5600円の頃ですから、
年収の2・8倍といったところでした。
それが昭和30年には1万円台のものも登場しました。
洗濯機は昭和24年頃では5万4000円しましたが、
昭和30年には2万円台となりました。
給料も順調に上がっていった頃ですから、
今日よりも明日の生活がより良くなることが信じられた時代感覚が
ご理解いただけるでしょうか。
渡米の準備と闇ドル
さて、高度経済成長のただなかの昭和38年(1963年)。
私は30歳となりました。
伊藤博文の1,000円札が発行され、
町では翌年の東京オリンピックに向けた準備がされ、
三波春男の「東京五輪音頭」が流行歌として流れていました。
30歳までには何か自分の道を決めたいと思っておりましたが、
レモンの輸入販売業が自分の道だとはどうしても思えなくなったのが、この頃です。
商売は軌道に乗っていまいが、次のことを行う時期ではないかと思ったのです。
レモンの輸入はアメリカからだったのですが節目の歳をきっかけに、
アメリカをこの目で見て、かの土地で一旗あげたいと考えました。
当たり前のことですが、渡米のためにはお金が必要です。
その資金はどうしたかというと、
不良少年時代に景品交換買いと場外馬券場で稼いだものを使いました。
それまでそのお金には一切手を着けていなかったのですが、全てドルに替えました。
当時、ドルは売り買いが規制をされていました。
昭和28年(1953年)に日本がIMFに加入した際に、
1ドルは360円に決まりと固定相場でしたが日本政府が外資を保持を理由に、
一般の人がドルを購入することはできなかったのです。
しかし、不良少年の時に培った人脈で、いわゆる「闇ドル」と交換をしました。
闇ドルは横須賀の基地周辺、御徒町、アメ横、追浜、逗子で交換場があり、
とにかくそこで取引されているドルは全て買い取ることをしたものですから、
一カ所で買うと次の場所では値上がりをしています。
「誰が何のために買い占めているんだ」と取引所では話題になったほどでした。
こうしてかき集めた闇ドルをトランク一杯に入れました。
といっても闇ドルですから空港で見つかれば即没収です。
そこで二重底のトランクをあつらえて旅に出たのです。
ロスアンゼルスでの空手家との出会い
アメリカへはプロペラ機でハワイを経由して、ロサンゼルスへと降り立ちました。
観光目的ではありませんから少なくとも一年間は滞在しようと考えていました。
アメリカの本質を掴みたいと思ったのです。
ロサンゼルスは海が近いことの影響か、
気候が安定していて風もさわやかで、とても過ごしやすい街という印象を受けました。
右も左も分からない土地でしたが、
幸いなことに友人からある人を紹介されていました。
空手家の大島つとむ(吉に力)さんです。
大島さんは早稲田大学を卒業して、空手を広めるためにアメリカに渡り、
UCLAなどで指導をした人で、弟子の延べ人数20000人という空手界の巨人です。
空手家というと孤高のイメージがありますが、
大島さんは親しみやすい人柄で奥様とともに、日本から来た私を大歓迎してくれたのです。
「田中さんよく来てくださいました。今夜は日本の話を聞かせてください。
田中さんのことはご友人から聞いています。
ここをご自宅だと思って、お好きなだけいらしてください」
「大島さん、しばらくお世話になりますがよろしくお願いいたします」
夕食の時になると、大島さんとお弟子さんたちが空手談義に花を咲かせます。
私は空手を経験したことはありませんが、
大島さんのお話を聞いていますと大変魅力的で、
空手の世界のほうに流れていきそうになってしまいました。
不良少年をしていたわけですから格闘技の話は嫌いではありません。
二週間ほど昼間はロサンゼルスの街を歩き、
夜は大島さんの空手談義を聞く生活が続きました。
それはとても心地良い生活でした。
しかし、ある時ふと「こんなことでアメリカの本質が掴めるのか、
自分は何をするためにアメリカに来たのか?」と思いました。
大島さんのところに長くいれば、
それだけ自分の本来の目的とは違う方向に進んでしまいそうだと感じました。
後ろ髪を引かれる心持ちでしたが
「大変お世話になりました。
いつまでもご厚意に甘えていてはいけませんので、
直にアメリカの風に当たりたいと思います」
「田中さん、お陰で楽しく過ごすことができました。
またいつでもいらしてください」こうして大島さんの道場を後にしたのでした。
(次回へ続く)