(6)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:値観の大変革時代に適合していくには

壁に咲くサクラソウ『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

今回は、第二次世界大戦が終わった後に見られた
日本での大きな価値観の変化についてです。

海城中学で教えられた人生の計画の作り方

昭和20年(1945年)4月になり、私は念願の海城中学に入学しました。

詰め襟の学生服のボタンを、
海城中学の「イカリにSマーク」のものに取り替え、
同じく「イカリにS」の記章の入った帽子をかぶると自分も
海軍の一員であるかのようで誇らしく思ったものでした。

入学したばかりの私たちに、担当教官が

「貴様ら! 人生は無限ではない。有限だぞ!
これから先の人生の計画(プログラム)を作れ。
海城中学を何歳で卒業して、何歳で江田島に入学し、
海軍大学を何歳で卒業するか、ここまでは分かっているだろう。
その後も考えろ。何歳で少佐になり、何歳で大将になるか、そういう計画を考えておけ」

と声を張り上げたのでした。

自分の人生がいつ終わってもおかしくないことを嫌でも意識させられました。

だからこそいつ死んでも悔いのないように
その日その日を精一杯生き抜こうと思ったものです。

自分自身の人生の計画を立て、
精一杯生きることを考えていた頃、
8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下されました。

最初は「2つの都市に新型爆弾が落とされた」ようなことが
伝わっていましたが、尋常ではないことが後に分かるのです。

新型爆弾と言われており、
原子爆弾という言葉は知りませんでした。

最後の一兵になっても頑張れと叫ばれていましたが、
東京にもいつか新型爆弾が落とされるのではないか、
日本はこれからどうなってしまうのか。

正確な情報が入らなかったことも私たちの不安を一層煽りました。

そして8月15日「玉音放送」で日本が負けたことを知ったのでした。

天皇陛下が日本が戦争に負けたことをラジオを通じて語りました。

「玉音放送」は最初は何を言っているのか、
何が起こっているのか理解ができませんでした。

それからだんだんと日本は負けたらしい
ということが分かったのでした。

戦争に負けた事実もショックでしたが、
それよりも戦争が終わり、海軍軍人として生きる目的を失った虚脱感がありました。

周りの大人もほうけたようになった人が何人もいました。

太平洋戦争では三百十万人もの人が亡くなったとされています。
家族や友人、知人たちを亡くした人たちが大勢いました。

8月15日を境に変わった常識

8月15日を境に今まで常識ががらりと変わっていきました。

世の中では次々に大変化が起こっていったのです。

一番印象深かった変化は、
それまで軍歌しか流していなかったラジオが
ジャズを流し始めたことです。

「テネシーワルツ」が流れたときは、
あまりに耳慣れない音楽だったので驚きました。
軽快で軍歌とは全く違い、新しい時代の到来を感じさせました。

その時に、私は日本人というのは変わり身が早いものだなと思いました。
昨日まで「敵性語」といって話すこともなかった
英語の音楽がラジオから流れたのですから。

海城中学では
「敵国語を勉強するより鉄砲の撃ち方を覚えろ!」
と教えられたことが遠い昔のように感じられました。

その一方で日本人のたくましさも発揮されました。

8月18日には、新宿の東口広場に巨大な闇市ができました。

闇市は戦争中もありましたが、
巨大なものが登場したのは戦後すぐのことです。

戦争中に正規のルートを通さずに
隠されていた食料品や食器類などの生活必需品が流されたり、
各家庭が、軍需産業の手伝いをしていた際にできあがった
ジュラルミンやアルミ製の水筒や飯ごうなどが出回りました。

新宿の東口は空襲で焼け跡となっていて、
そこにいくつもの裸電球が灯されて、露天商がひしめき、にぎわいました。

戦争に負けたという玉音放送が流れてからわずか3日後のできごとなのです。

新宿の闇市は関東尾津組というテキ屋さんさんが仕切って、
露天商を開きたい人は、親分さんに場所代を払ってものを売るのです。

闇市の動きは次第に広がっていき、
山手線の駅ほとんど全部の駅に闇市ができあがりました。

8月20日には灯火管制がなくなりました。
六大都市では、それまでは街灯も付けられず、
家々の明るい光が空爆で狙われるという理由のために
黒いカーテンで覆われ街中が暗かったのですが、夜が一気に明るくなりました。

ラジオで天気予報が始まったのも同じ日だったと記憶しています。

天気予報は戦況に大きな影響を与えるためとそれまでは放送が中止されていたのです。
8月28日はアメリカから占領軍のやってきて、
30日にはマッカーサーが厚着空港に到着し、占領政策が開始されました。

正反対となった価値観

睡蓮の花

私たち姉弟は焼け残った下井草の自宅を間貸しして、
その家賃で授業料と生活費を工面していました。

私は12歳になっていました。

あれほど憧れて入学した海城中学では
戦争中の軍国主義的な内容部分に墨を塗れと言われ、
教科書のほとんど1ページが真っ黒になることもありました。

入学前に考えていた海軍のための学校ではなくなっていました。

教師たちが教えることはそれまでとは全く正反対で、
なにが大切で、なにが間違っているのか、
人生の価値観が根底から崩れたような心持ちがしたものです。

昭和21年(1946年)から23年(1948年)の間には
東京裁判がはじまり、東条英機元首相らが有罪となりました。

偉いと思っていた人が犯罪者になったのでした。

戦前は盛んに推奨されていた
剣道や柔道も学校では行われなくなりました。

黒澤明監督の「姿三四郎」も柔道映画だからダメだというわけです。

戦争から3年の間に日本の価値観はぐるりと逆になってしまったようでした。

現在、価値観の大きな変化が起きていることを否定する人がいないでしょう。

ビジネスに携わっている方でしたら、
AIやIOTの影響、あるいは人口減少の影響で
ご自分の仕事の進め方が大きく変わっていくことを肌で感じているはずです。

変化は誰しも怖いものです。
でも是非、心に留めておいていただきたいのは、
「人間は想像以上に世の中に適応できる生き物だ」ということです。

ご自分で考えている以上に変わっていくことができるということです。
それも一日、二日といったごく短期間で変わることができるのです。

自分が変われることが理解できていれば、
世のなかがどんなに変化しても、適応することができます。

心のあり方が変化への対応も可能にするからです。

海城中学を退学

さて、終戦後すぐにアメリカの映画が日本に入ってきました。
新宿の映画館では西部劇を上演するとすぐに満員。

昭和21年(1946年)には名作の「カサブランカ」、「鉄腕ターザン」など。

昭和22年(1947年)には、
今DVDで見ても心躍るジョン・フォード監督による名作「荒野の決闘」
が上映されました。主演はヘンリー・フォンダで西部劇の傑作です。

海城中学は大久保にあったので、
映画館のある新宿までは歩いてすぐのところです。

価値観の変化の延長で、
学校では満たされない気持ちを私は映画へと向けました。

中学3年生のある時、学校から心が離れていた私は、
友人たちを誘って映画館に「今日も」出かけました。

「授業つまらなくないか? 映画でも行くか」
「荷物はどうする?」
「どこか外にでも置いていけば学生だとはわからないよ」

そして、映画を見終えて、
外に出ようとすると出口のところに「学童指導」の人たちがいたのです。

警察ではないけれども生徒たちを取り締まったり、
補導捕したりする人たちです。

これまでも学童指導には何度もお世話になっていました。
うまく逃げられることもありましたが、かなりの確率で捕まっていました。

その日も、知らぬ顔で逃げようとしましたが、
映画館を出てすぐのところで「ちょっと待て」と肩を捕まれ、
結局補導されることとなったのです。

翌日、学校に行くと校長室に呼び出されました。

「また昨日の映画館通いを怒られるのか」とげんなりしました。

校長室に行くと、一緒に映画に行った友達たちがずらっといます。
校長は私たちを一列に並べ、気を付けの姿勢をさせて、

「お前ら! また授業をさぼって映画に行ったろう!
これまで大目に見てきたがそれもここまでだ。全員退学処分とする!」

そこにいた全員の顔が困惑と不安で一瞬に曇りました。

今までは注意をされたことはあっても、
まさか「退学」を宣告されるとは思いなかったからです。

校長の顔色を見ると、額に青筋を立てており、
警告の意味ではなく本気で退学処分を考えていると分かりました。

これは困ったことになったと思いました。

普段は映画館などに行かないのに、
この日たまたま誘った友人もなかにはいました。
そして、誘ったのは私なのです。全ては私の責任だと思いました。

「先生、ちょっと待ってください。
僕がみんなを誘いました。だからぼくひとりが辞めればいいでしょう。
そうしたらみんな大人しくなりますから」。

こうして、15歳の時に海城中学を退学処分となるのです。
昭和23年(1948年)のことです。

その頃には下井草の家を売り払い、
姉は学校を卒業して家を出ることが決まっていましたので、
退学を機会に、姉には迷惑をかけずに自分ひとりで生きていこうと決めました。

なぜか先行きに不安はなく、
なんとかなるだろうという気持ちでいました。

生活必需品の流通もかなり改善し、人々の生活も落ち着いてきていました。

(次回へ続く)

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