(13)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:吉田茂から教わった「教育」と「心の中心軸」の重要性

『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

今回は、友人の紹介で政治家竹内先生のお手伝いをするなかで
吉田茂元首相との出会いについて書かれています。

時代背景などもお含みのうえ、お読みいただければ幸いです。

現在、大きな変化の時代を迎えていますが、
時代が動くときに、どのような判断を行うべきかといった
考察の参考になると考え、
ご関係者の方のご了解を得まして、記事を掲載いたしております。

政治家のお手伝いというお仕事

政治家の手伝いというと秘書や書生を想像されるかもしれませんが、
私の場合は、ほかの政治家との面会の場を設定したり、
人からの頼まれごとを解決する手はずを整えたりといった実務の取り仕切りでした。

政治家の仕事の範囲は非常に多岐に渡るため、
ひとつひとつを冷静に客観的に判断して、対応していくのは大変でした。

仕事の内容はうっかりと外にもらせないものも多く、
休みの日でも気が抜けないのです。

「手伝い」の名目ですから給料が出ることはなかったのですが、
それでも、不良少年を続けていたら絶対に交わることのなかった人々との
出会いもあり、政治の世界の仕事は面白く、充実した日々となりました。

竹内先生と一緒に仕事をするうちに、
先生の交友範囲がだんだんと分かってきました。

竹内先生は政治家のなかで誰と馬が合ったかというと
総理大臣を務めた吉田茂さんでした。

吉田さんは、最初の奥さんの雪子さんを亡くし、
新橋の芸者であったこりんさんに身の回りの世話をしてもらっていました。
後に吉田さんはこりんさんと再婚をしています。

竹内先生も新橋が好きで、
よく通っていましたからそんな関係から公私ともに親しくしていたようです。

その頃、吉田さんは、温暖で環境の良い大磯で暮らしていたので、
私は不良時代に買った車で竹内先生を隣にお乗せして、
たびたび吉田邸にうかがいました。

吉田邸は敷地が広く、
きれいに手入れされた和洋入り交じりの庭と
その先にある数寄屋建築は威風堂々としており、
さすがに大宰相の邸宅は違うものだなと思ったものです。

サンフランシスコ講和条約締結を記念して
建てられた檜皮葺きの「兜門」が完成直後ということもあり、
門を通るたびに見上げたものでした。

吉田邸で、印象的だったのは玄関のドアで、
内側に押して開いて入るのですが、
その頃の一般の家はドア手前に引くものが多かったので不思議に思いました。

後に私がアメリカに渡ったときに、
アメリカの玄関ドアは内開きの家が一般的で、
吉田さんは、海外暮らしが長かったから、
内開きの様式に習ったのだと気が付きました。

吉田邸の応接室で、
竹内先生が吉田さんと話をしている間、
私は応接室の横の控えの間で待っていることがたびたびでした。

お手伝いさんが煎れてくれたお茶をゆっくりと飲んで待っているのです。

ある時に吉田さんが控えの間までいらして話をしたことがありました。

直接、吉田さんにお会いする前までは、吉田さんという人は、
怒りっぽいというイメージがありました。

「ばかやろー」と言って国会を解散したり、
貴族的で横柄だと新聞で叩かれたりしていたからです。

しかし、実際にお会いすると、静かに話す温厚な方でありながら、
ご自分の中心軸をしっかりと持っており、
言うべき時にははっきりと物事を伝える方だと感じました。

マッカーサーを相手に直言や堂々と反論をすることができたのは
吉田さんだけだったと言われていますが、
なるほどそれもうなずけるものがありました。

吉田茂から日本の未来を問われる


吉田さんは竹内先生から私のことを聞いていて、
何度か挨拶をしているので、
控えの間で待っていた私に気軽に話しかけてきたのです。

「田中君。これから日本はどうするかね?」と突然の問いかけでした。

私はこれから日本が海外と競争をしていくには
技術的な発展が欠かせないと考えていました。

朝鮮戦争による特需のような運の良いことをアテにせず、
技術力を軸に経済発展を目指すべきだと考えていたのです。
日本が高度経済成長の時期を迎える前のことです。

私は「これからの日本は産業が第一だと思います」と答えました。

すると吉田さんからは即座に、
「田中君、それは違うよ」と返ってきたのです。

「日本の産業はいずれ興隆するだろう。
しかし、そんなことは枝葉の話にすぎない。

日本がこれから最も大事にすべきは『教育』だよ。
次の世代を担う子供たちの心を教育することだ」

「そうですか」とその時は応えましたが、
心のなかでは「教育なんかではご飯は食べられませんよ」
と思っていたのです。

私が竹内先生と吉田茂さんのお宅によくお邪魔していた昭和29年頃は、
朝鮮戦争による特需が終わり経済が下降線をたどりはじめていたのです。

世間には失業者の増加が問題になりつつあり、
「明日の教育よりも今日の飯」は当たり前の感覚だったと思います。

しかし、今になると、
吉田さんが何を伝えたかったのか分かるように思うのです。

日本は戦争によって、価値観の大変革が起こりました。

日本人は中心軸がぐらつき、
どのように生きていけばよいのか分からなくなっていました。

戦後60年以上経った今もぐらつきの影響から、
なかなか抜け出せていないのかもしれませが、
吉田茂さんはそのことを予見していたように思います。

経済的にいくら豊かになったからといっても、
人としての中心軸のぐらつきは大問題なのです。

ぐらついた軸を取り戻すためには、
心の教育が第一だという吉田さんの考えはなるほど卓見であったと思えます。

「教育」と「心の中心軸」の重要性

これからの時代、より複雑で不透明や世の中になっていくことと思います。

政治の世界もそうでしょうし、ビジネスの世界も同様だと思います。

そうした世の中を、上手に生きていくためには、
自分のなかに「これだ」という価値観を中心軸として持っておくことが必要です。

たとえば、自分のビジネスの価値の中心がどこにあるのか、
それを活かすためにはどうすればよいのかを
常に自分のなかに持っておくことが必要です。

あるいは逆に
「この部分は自分のビジネスの強みではないから、あえて行わない」
といったような判断ができるように、中心軸を持つ必要があると考えています。

(次回へ続く)

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