(11)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:人生に転機

『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

本記事は
日本の健康産業の第一人者である
田中恒豊(たなかつねとよ)さん(故人)への
2014年頃からの長期インタビュー(インタビュー当時80歳代)
を書き起こしたものです。

田中さんは、戦後の大きな時代変化のなかで、
日本で初めてのフィットネスクラブを設立された方で
「日本の健康産業の第一人者」として知られています。

今回は、不良少年から足を洗うきっかけとなった
弁護士の日野久三郎先生との出会いについて書いています。

時代背景などもお含みのうえ、お読みいただければ幸いです。

現在、大きな変化の時代を迎えていますが、
時代が動くときに、どのような判断を行うべきかといった
考察の参考になると考え、
ご関係者の方のご了解を得まして、記事を掲載いたしております。

毎週土曜日に更新の予定です。

経済な回復を見せた戦後日本

昭和25年(1950年)から朝鮮戦争が始まりました。

朝鮮半島は昭和20年に日本が戦争に負けてから、
北緯38度線を境に北はソ連、南はアメリカの占領地域となっていました。

昭和25年にアメリカ軍が韓国から撤退を開始した際に、
北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争が始まりました。

同年に、国連軍が出動を決定し、
アメリカを中心とした軍の司令官はマッカーサーでした。

朝鮮戦争により日本は意外にも経済的な恩恵を受けることとなりました。
米軍が日本を主な基地としたので、
兵器や弾薬の製造といった大量の需要が生まれたのです。

この朝鮮特需によって、日本の復興は一気に進みました。
昭和26年から28年にかけては、
私のように戦争需要とは関係のない人間でも、
世の中の好景気の影響を受けました。

聖徳太子の1000円札が発行されたのもこの年でした。
美空ひばりの「東京キッド」の歌詞に
「粋でおしゃれな」とあるように、
それまでの生活するだけで精一杯の暮らしから余裕が生まれました。

留置場で考えた自分の人生

昭和27年(1952年)私は19歳になりました。
八王子の多摩少から脱走してからというもの、
ますますと箔が付き東京の不良少年のなかでは
「銀座のバビイ」と双璧と言われるまでになりました。

不良少年にとって多摩少脱走は大変な勲章だったのです。
「あの多摩少を脱走した神田のボーヤだ」というわけです。

警視庁から

「神田のボーヤは、これまで軽い罪状でしかひっぱることができなかったが、
いずれは長いお勤めをしてもらわなくてはいけない。
あれを野放しにしていては警視庁の面子が立たない」

などと言われていたのでした。

朝鮮戦争による特需で世の中の景気が良くなったのは先に述べましたが、
景気が良くなればそれはそれでもめ事や儲けのネタも増えるわけで
充実した日々を送っていました。

例えばスリの集団が神田で仕事(?)をしたいと思ったときには、
自由気ままにできるかというとそうではなく、
土地の顔役に挨拶をしなくてはいけません。

「こちらで稼がせてください」と許可を受けるのです。

もちろんそれなりの手土産も必要となります。

「どうぞ。たっぷり稼いでくださいよ」
と許しが出てはじめて動くことができるようになるのですが、
この頃には私のところにもそうした挨拶をしたい
という人たちが来るようになっていました。

もっとも神田はサラリーマンが多いこともあり
「兄い、神田はダメだ。どの財布も薄い。次の場所に移ります」
とすぐにいなくなってしまうのが常でした。

そんなことでお金には不自由しませんでしたが、
心のなかでは「こんな生活をいつまで続けていていいのか」
と疑問が生じ始めていた頃でもありました。

その年の12月27日の寒い夜のこと、
私は仲間が起こしたトラブルが原因で、
久松警察署の留置場に入れられました。

警察が用意周到に網を張っていて、
仲間がそれにひっかかってしまったのでした。

しかし、仲間が起こしたといっても結局原因は私にあるようなもので、
警察が真に捕まえたいのは私なのですから捕まるのも当然でした。

留置場の冷たい椅子に座って、
手を温めようとこすりあわせていると、
頭のなかをこれまでの悪事が思い起こされました。

直接的、間接的に世間に迷惑をかけていることは肌で感じていたのです。

薄暗い留置所で自分と向かい合う時間を持つことができたのでした。

弁護士日野久三郎先生との出会い

ひとりうつむいて、
自分がこれからどうしていくべきか考えていると、
ひとりの警察官が私のところに来ました。

「田中。お前に面会だ」と留置場のカギを開けて、面会室へとうながしました。

年の瀬も押し迫った12月27日のことです。
こんな時に「誰が面会に?」といぶかしく思いながらも面会室へと行きますと、
そこにはグレーの上等な背広を着た眼鏡の男性が座っていました。

年の頃は30代前後で、人品骨柄はごく品が良く、
知性のきらめきを感じさせるまなざしが大学教授を思い起こさせました。

初めて会うその人の顔を怪訝そうな表情で見つめていると、

「初めまして。私は弁護士をしております。
日野久三郎という者です。田中さん、あなたにお話があり、
無理を言ってこちらにうかがいました」

と丁寧に挨拶をしました。

「日野久三郎」という先生の名前はかねてより「銀座のバビイ」から聞いていました。

「俺たち不良少年ではどうしようもならないことがあれば、
日野先生に相談しろ。信頼のできる人だし、何より弁護士として凄腕だ」
と言われていたのです。

日野先生は中央大学出身の新進気鋭の弁護士でした。
後に「真法会」という法律を勉強する団体を組織して後進を指導し、
お弟子さんは2000人を超えると言われるようになります。
司法研修所教官、最高裁判刑事規則制定諮問委員などを歴任され、
晩年はリクルート事件の江添被告の弁護を行いました。

日野先生が面会に来たのには事情がありました。
その頃、東京の不良少年で「銀座のバビイ」と「神田のボーヤ」が
双璧と目されていることは先に述べた通りですが、
そんな我々二人をどうにかしようと警察も色々と考えたようでした。

「あの二人は知恵、発想、行動力、統率力どれも並ではない。
不良少年のうちですら、手を焼かされているのに、
どこかの組にでも入ったら、大変なことになる。
それでいて何とも憎めないところがあるから、
今のうちに何とか更正させられないだろうか」。

そこで警視庁が注目したのが、銀座のバビイと日野先生の関係でした。
そして日野先生に、
「二人のうちどちらか一人でも構いませんので、
不良少年から足を洗わせて堅気にする説得をしてもらえませんか?」
と持ちかけたということでした。

日野先生の提案

面会所で日野先生は、私をまっすぐ見て、穏やかな口調で語りはじめました。

「田中さん。警視庁が、あなたかバビイさんのどちらかを
どうしても堅気にさせたいようなのですが、私の話を聞いていただけますか?」

「先生のお話を聞くのはいいのですが、バビイは何と言っているのですか?」。

私は急なことで日野先生の真意を見極めかねていたのです。
先生の目が光を帯び、鋭くなりました。

「バビイさんとはこちらに来る前にお話をいたしました。
彼は『絶対に堅気にはならない』と言うのです。
どうしてか尋ねますと『盃をもらったからだ。それは違えられない』と」

盃をもらうということは、不良少年ではなく
裏社会のどこかの組員になることを意味していました。
バビイにしてもよくよく自分の人生を考えての決断であったに違いありません。「男が一度決めたことだから」と日野先生の説得にも耳を傾けなかったのは無理もないのです。

「田中さん。あなたの誕生日は1月17日ですね。
調べさせていただきました。今日は12月27日。
今、久松警察署に拘留されています。年が明ければ17日はすぐに来ます。

そうするとあなたは成人だ。
これまでは未成年ということで大概のことは、
書類での処理とか、少年院などの軽い処罰で済まされていたかもしれません。
でも成人になってからはそうはいきません。

前科が付きます。これは戸籍を汚すことで一生ついて回るものなのです。
あなたの人生ですから、田中さんの意志を尊重したいと思います。
これからどうするか今日お決めなさい」

日野先生の言葉は、自分の悪事を反省していた私には強く響きました。
そして今日、日野先生に会ったのは運命だと感じたのです。

「先生、私はこれまで世間にたくさんの迷惑をかけてしまいました。
そのことについてはどう思われますか」と問うと、

日野先生は「人生はいつからでもやり直せるのです。
もし田中さんが、これまでのことを強く反省するのならば必ず道は拓けます」
と言うと強く私の目を見つめてきました。

私はそれに応えて、
「先生、不良少年からは足を洗います。
これからは人に迷惑をかけず生きていきたいと思います」

悩むことは、人生を好転させるきっかけとなる

12月27日。私はこうして不良少年をやめる決意をしました。
日野先生が「今日決意しなさい」と言ったのには理由がありました。

翌日の12月28日というのは官公庁がお休みになってしますので、
年内に留置場を出るにはこのタイミングしかなかったのです。

日野先生は警視庁と交渉をしてくださって、
私は27日の夜に久松警察署の留置場が出ることができました。

そして「この事件は不問に付す」と担当の警察官から言われた時に、
日野先生がいかに本気で私を更正させようとしていたのかが分かり、
これに応えるためには、
これからどんなことがあっても不良少年には戻らない決意と
覚悟をしたのでした。自分の心と向き合い真摯に反省が、
日野先生との出会いに導いてくれたのではないかと思っています。

私を堅気の世界に導いてくれた日野先生とは、
その後も親しくさせていただきました。

ある時などは、私とのご縁で
『致知』という雑誌のインタビューに応えていただいて、
ご自身の来し方、人生訓などを語っていただいたこともありました。

残念ながら、日野先生は2005年にお亡くなり、
葬儀会場の護国寺には、訪れた人の長蛇の列ができました。

財界人、政治家などもたくさん参列しており、
改めて日野先生の影響力の大きさを知ったのでした。

人生を生きていく中で「自分はこの生き方で本当によいのか?」と悩む時があるものです。
それは自分が良い方向に変わるきっかけであるケースが多いように感じています。

そのときに、自分の心をもう一度見つめなおし、
外部から何かのアクションがあったときには、
タイミングを逃さず、思い切って流れに乗ってみることをお勧めします。

もし、その流れが失敗であったと思ったのであれば、
立ち戻ればよいだけの話です。

数年前の話ですが、ある方から
「転職をしたいと考えているのですが……」
という相談を受けました。

そのときに、「自分が本当にこれがやりたいということがあり、
転職先がそれにふさわしいと思うのならば転職してみてはどうですか」
とアドバイスをしました。

その方は、悩んでいましたが転職をされて、
一年ほどしてから「元の職場に戻る」という決断をしました。

「やりたいことがあったわけではなく、
元の職場の環境に不満がありました。でもそれは自分で変えられるものだと
転職して気がついたのです」
ということでした。

そして、現在は生き生きと働いており、
上司からの評価も転職前よりも高くなったそうです。

自分の心は何を求めているのか、
自分の決断や努力で変えられることがないかを真剣に考え、
そして行動したときには人生は良い方向に必ず変わっていくものです。

年が明けてすぐに、私は「不良少年をやめる」と公言をし、
これまでお世話になった人たちに挨拶に行きました。

もちろん神田の顔役である児玉さんにもそのことをお話しました。
毒を喰らわば皿までの世界のことですから、
落とし前を付けさせられると思っていましたが、
私の心は強く反省に向かっていましたし、
日野先生のご厚意にも応えるためにも何があっても足を洗う覚悟でした。

児玉さんに、素直に自分の気持ちを話すと、
「あんたはいつか堅気になると思っていた。
これまで何人もの親分たちが、
あんたのことを組に入れたいとオレのところに来たが
全部断った甲斐があった。あんたの新しい門出をお祝いするよ」
と喜んで送り出してくれたのでした。

児玉さんが、他の親分方からの入組の勧誘を断ってくれていたことを
そのときに知って改めて感謝の念が起こりました。

(次回へ続く)

(12)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:天が意図する「出会い」を引き寄せるのは素直な心
本記事は 日本の健康産業の第一人者である 田中恒豊(たなかつねとよ)さん(故人)への 2014年頃からの長期インタビュー(インタビュー当時80歳代) を書き起こしたものです。 田中さんは、戦後の大きな時代変化のなかで、 日本...
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