(15)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:人との出会いが「中心軸」を強くする(2)

『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

今回は、横須賀の海軍基地での鉛発掘の事業をうまく軌道に乗せ、
政治の世界とさらに深く関わっていくなかで違和感を感じ、
そして、また別の方向に進んでいくまでについて書かれています。

里見甫さんに紹介された大物フィクサー

里見さんの紹介を受けて、行った先の目黒の家でした。
玄関を入った途端に「尾頭付きの虎の毛皮の敷物が出迎えてくれました。

一匹ではありません。玄関からどこまで続くか分からない長い廊下の全てに
「尾頭付き」がひいてありました。それこそ何枚も何枚も。

虎の口から覗く牙の鋭さを私は面白く見ていましたが、
竹内先生のほうが顔をしかめていたので気味が悪いと思ったのでしょう。

固く整った虎の皮のひかれた廊下の先の客間に通されました。

客間のソファーも上質で座り心地も良く、出された日本茶も玉露でした。
そして、しばらく待っていると小柄で着流しを着た、一見したところ、
失礼ながら、近所にもいそうなオジさんが一人現れました。

窓を背に、私たちの向かい側に座りましたが、目の奥には尋常ではない光が見てとれました。

これまで裏社会の親分連中を随分と見てきた私ですが、
それぞれ押し出しが強く迫力がありました。

しかし、目の前にいるのは、普通のように見えるが、
一方で底知れぬ何かを感じさせる、こんな人だったのです。

この人こそが阪田誠盛(さかたしげもり)さんでした。
阪田さんは中国の国民党軍に対する経済攪乱作戦として偽札作りに関わった「阪田機関」のトップです。

戦後は右翼の大物として知られ、朝鮮戦争の折りには、
「海烈号事件」といって、船をチャーターして仲間たちを引き連れて、
朝鮮半島に乗り込もうとしたような人です。

阪田誠盛 - Wikipedia

阪田さんのレベルまで行くと人は「一見」普通に見えるのだということが今なら分かります。

坂田さんは竹内先生の話を聞くと「折半ですよ」とただ一言言いました。

つまり融資を行う条件として、鉛採掘の事業で得た収益の半分を坂田さんに納めるという条件でした。

竹内先生と私は思わずお互いを見合いましたが、
すぐに竹内先生が「ふう」と鼻から息を抜いて「その条件で結構です」と承諾しました。

すると、すぐにその場で現金を用意してくれたのです。

こうしてようやく、採掘へとこぎ着けることができたのでした。

採掘作業の進め方、そして報酬

採掘の作業は、どのように進めるのかと言いますと、
まず大型のショベルカーを使って射的場の山を削ります。

そして削った土をトラックの荷台に山盛りにして久里浜まで運ぶのです。

久里浜では、大きな五右衛門風呂に水を入れたものを3、4つ用意し、そこに先ほどの土を入れます。

鉛は比重が重いので下に沈み、上に浮いてきた土はすくいのようなもので取り除く。
これを何度も繰り返すときれいな鉛だけが下に残ります。

この鉛を工場へ持って行き、インゴットに整形して国内市場でさばいていくわけです。

I開発の社長が計算したようにその作業は、一年間続き、
私も毎日作業場に足を運んで作業の指揮を手伝いました。

私がこの鉛の事業でどれくらい儲けたか、みなさん気になるところでしょう。

実は私自身は一銭ももらっていません。
鉛の事業が終わった頃、I開発事業の社長に「私の取り分は?」と聞くと
「田中さん、今度長女が結婚するので物入りなのよ。また今度ね」。

I開発の社長とはそれっきりです。
その時は、疲れた身体を東京の熱い銭湯のお湯で流し、
流行り始めたサウナに行って汗をかくうちに「そんなものかな」と思うようになりました。

あれだけ苦労したのですが、自分でも不思議なほどお金には執着しませんでした。

仕事の報酬というと、多くの人はお金を想像します。
しかし、仕事を通じて得られる能力であったり、あるいは人との出会い、
そして次の仕事を求めた方が結果的に良い場合があるようです。

今考えれば井出開発との仕事で、芦田均さんや野村吉三郎さん、
里見甫さんや阪田誠盛さんとのご縁をいただけたことは何にも代え難いことであったと思うのです。

この出会いは、私の人生にさらに自信をもたらし、生き方の中心軸を強化してくれたからです。

政治の世界との決別

鉛の発掘事業が終わってからも、しばらく竹内先生と仕事を続けていました。

しかし、政治とはそういうものなのでしょうが、
私のプライドや矜持とはかけ離れた世の中の裏の裏まで見るような
取引や陳情がいくつもありました。

ある時は断り、またある時は利害の調整をするようなことも行いました。

竹内先生はもちろんですが、吉田茂さんという政治の世界で
トップクラスの人物とツテがあることが、良い意味でも悪い意味でも、
私の影響力を強める結果となっていたのです。

そして考えました。
「この世界にいたら、いずれ自分のプライドまでも
売り物にしなくてはいけない日が来る。
それは自分が自分ではなくなることだ」と。

思い立ったら、すぐ行動の私のことですから
竹内先生に「起業を本格的に行います。今までお世話になりました」と
お別れを言いました。

竹内先生は残念そうな顔をしましたが、いつかこの日が来ることを
予感していたのだと思います。

「分かりました。これまでありがとうございました。田中さんお元気で」

これを最後に、竹内先生のところにも、また政治を目的に交詢社を
訪ねることは二度とありませんでした。

新しい商売

竹内先生と別れた私は神田へ戻り、商売を始めました。

それは前から目を付けていたレモンの輸入販売です。

昭和30年(1955年)当時、レモンというのは八百屋さんや果物屋さんでは扱っていませんでした。
海外から輸入されるレモンは箱単位で売っていたからです。

一箱にはレモンが大体180個くらい入っています。

普通の八百屋さんが、一箱のレモンを買って全部売れるのを待っていたら、
20も売れれば良い方で、残りは全部しぼんでしまいます。
私はそこに目を付けたのです。

高度経済成長の第一段である神武景気(昭和29年末から32年前半)の時代と重なり、
食べ物も洋食や洋菓子、そしてレモンスカシュやジン・フィズといった飲み物が
親しまれるようになった頃です。レモンも日常の風景となり始めました。

不良少年時代の経験から、神田界隈は目をつぶっていても歩けるほどでしたから、
どこに喫茶店、バー、クラブ、キャバレー、ナイトクラブがあるかを熟知していました。

ナイトクラブというのは今はあまり見かけませんが、
カップルでお酒を楽しんだり、チークダンスをしたりするお店で、当時はとても人気がありました。

こうしたお店を一軒一軒、従業員に訪ねさせ、レモンを売るのです。
お店はレモンの入ったアルコールや飲み物が出せると大喜びで買ってくれました。

「儲けの極意は少しの水が絶えず湧いてくる井戸を掘ること」の原理を応用しましたので、
利益はいつもながら少なかったのですが、
毎日の積み重ねで儲かりました。

自分で商売を始めて良かったことは、
買う側も、売る側も、社会もそれぞれが得をしたということでした。
地に足の就いた仕事の素晴らしさを実感する日々でした。

(次回へ続く)

(16)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:自分の「道」を見つけるには
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