(7)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:正攻法でダメなら裏の手もある

影がちな道『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

本記事は
日本の健康産業の第一人者である
田中恒豊(たなかつねとよ)さん(故人)への
2014年頃からの長期インタビュー(インタビュー当時80歳代)
を書き起こしたものです。

田中さんは、戦後の大きな時代変化のなかで、
日本で初めてのフィットネスクラブを設立された方で
「日本の健康産業の第一人者」として知られています。

今回は、戦後、神田で不良少年となった田中さんが
感じたことを中心に書いています。

時代背景などもお含みのうえ、お読みいただければ幸いです。

現在、大きな変化の時代を迎えていますが、
時代が動くときに、どのような判断を行うべきかといった
考察の参考になると考え、
ご関係者の方のご了解を得まして、記事を掲載いたしております。

毎週土曜日に更新の予定です。

神田での不良少年生活

ギャングの落書き

学校を辞めさせられ、ひとり家を出たけれど、
その日泊まるところもありません。

しかし、何かに促されるように
子供の頃からよく出かけていた神田へ足が向かいました。

神田駅の周辺は戦火を免れた建物が残っていて、
闇市・露天などがあり、人の集まるにぎやかなところでした。

今も神田周辺には当時の面影を残した建物があります。

物やお金、そして人の集まるところには、
何かとトラブルがあるのが世の常で、
それを治める力も必要とされていました。

そんな神田界隈の顔役であったのが児玉勤さんという人で、
後に桝屋連合会の会長となり、
侠客の世界で最後の大物といわれるまでになるのですが、
そんな児玉さんがまだ若い頃の話です。

児玉さんのことは中学時代の友人を通じて知り合いだったので、
まずは挨拶と事務所を訪ねました。

児玉さんはどうしたことか私のことを随分と気に入ってくれて
「神田で良かったら遊んでな」
と言ってくださいました。

それから私は神田に住むこととなり、
児玉さんにたびたびお世話になることとなったのです。

裏社会というのは外から見ると、
個人主義の集団のように見えますが、
上下関係、役割の分担、協力関係などの枠組みがしっかりとしており、
テキ屋にはテキ屋の、博打打ちには博打打ちの組織があります。

そのいずれの組織にも属さない若い個人、
またはグループを「不良少年」もしくは「愚連隊」と呼びました。

私は神田で遊んでいるうちにいつの間にか不良少年の仲間入りをしていました。

自慢するわけではありませんが、
私には生来の度胸があったようで、
相手が誰であってもひるむことはありませんでした。

不良同士の喧嘩というのは、
物理的な衝突が起こるのはどうしようもない場合だけで、
大概は、相手の力量を瞬時に判断するのです。

私と対峙した相手はほとんどが下手に出るといった具合でしたし、
仮に喧嘩となったとしても気合いで勝負がつきますので、
負けることはありません。

負けなしですから、大きな顔ができますし、
周りも「兄い!」と持ち上げてくれます。

そんなことで不良少年の生活がぴたっと性に合っていたのでした。

「ギャングスターもスターだ」。
今考えれば汗顔の至りですが、
その当時は本気でそんなことを考えていたのです。

数ヶ月と経たないうちに、
不良少年のなかで認められて年上の人たちも
「先輩!」とか「兄い」と言われるようになり、
まとめ役となっていったのでした。

もめごとがあれば出掛けていったりしていました。

児玉さんの世話になりながら、
なぜ裏社会の正式な組織に入らなかったのかと
読者の方は疑問に思われたかもしれません。

それについてはこんなことがありました。
私の噂を聞きつけて、
川崎や横浜から博徒系の親分衆がスカウトに来て、
「是非、うちで預かりたい」という話が何度もありました。

「この子は頭が良いから、
うちの代貸(だいがし)にしたい」と言うのです。

そして私のことを引き抜いていこうとするのですが、
そのたびに児玉さんが
「やめてくれ。この男は必ず堅気になって、一角の人物になる男だから」
と断ってくれました。

児玉さんが防波堤になってくれていたわけです。

児玉さんがどうして私のことを
「いずれは堅気になる」と見ていたのか、
「裏社会の組織には断固として入らせなかった」のは今も分かりません。

しかし、それから数年後、
結果として不良少年からはすっかりと足を洗い、
堅気の道を歩むことになるのですから、
児玉さんの人を見る目に全く正しかったのです。

児玉さんが何度も断ってくれるうちに、
「どうも田中を組織に入れるのはダメなようだ」
と親分さんたちも諦めたようで、
その後も私は自由な不良少年の生活を満喫していたのでした。

不良少年の商売

不良少年の私がどんなことをしていたかというと、
たとえばこんな商売です。

まず大量の落花生を友人のツテで安く仕入れます。
スナック菓子などない時代ですから、
落花生はおやつにもおつまみにも人気があったのです。

それを売って一儲けしようと、
仲間たちと一緒に、
落花生を入れた一斗缶を神田駅の近くに露天で並べて
「一合20円」と札を書きました。

落花生をマスで計って売るのです。
貨幣価値が現在とは随分違いますが、
昭和24年の銀行員大卒初任給が3000円ですので、
そこから考えると、一合20円というのは、
現在ですと500円~1000円くらいでしょうか。

落花生を朝から売り始めて、
昼前には仕入れた60キロの半分が売れました。

手元には2000円ほどの売上があり、
これなら夜までには全部売り切りれると考えていました。
粗利が3000円ほどになるなと算段して、
調子よく売っていたのですが、
落花生を買っていったお客さんのひとりがしばらくしてから戻ってきました。

背広を着て帽子をかぶったサラリーマン風の男でした。

男は近づいてくるなり、
マスを持った仲間のひとりの右手を掴むなり
「ここの責任者は誰だ! 詐欺の現行犯で逮捕だ!」
と大声で叫びました。

その男は警察官でした。
落花生を買ってすぐに近くの警察署に戻り、
落花生の分量が一合あるかどうか計ったのです。

私が仲間たちに落花生を計らせていた一合マスは
「もちろん」上げ底ですから、0,5合もありません。

わざわざ計る人などいないと思っていたのです。

「一合」と明記して売っているのですから
詐欺と言われても抗弁のしようがありません。

責任者は私ですから、
結局、万世橋警察署に連れていかれることとなりました。

名前やら住所を聞かれましたが、
年齢を言うと幸いにも
「未成年だから始末書で勘弁してやる」となりました。

「二度とやりません」と念書を書き、
人差し指で印を押し、釈放となったのです。

夕方頃に警察署から戻ってきたのですが、
落花生はまだまだ売れ残っているわけです。

仲間たちも「兄い、どうしましょう」といった顔でこちらを見ています。

落花生は残り30キロ。
在庫を抱えていても仕方がないので、
そこで知恵を絞りました。

「一合20円」の札を裏返しにして
「一山20円」と書いて売ることにしたのです。

夕方の人通りの多い時間となり、落花生はまた調子よく売れていきました。

すると、また先ほどの警察官が来て「まだやってるのかお前ら!」

そんなことを言われるのは百も承知でしたから
「よく見ろよ。さっきは一合20円だけど、
今度は一山20円だよ。ちゃんと書いてあるだろ」。

警察官も「なんて小生意気な奴だ」と思ったことでしょうが、
これには返す言葉もありませんでした。

嘘は書いていないのですから。

警察官は歯をくいしばって悔しそうな表情をみせましたが、
「ふん」と言うとくるりと警察署の方向に引き返していきました。

悪知恵だけは人一倍でしたから、神田警察も警視庁にも手を焼かせました。

正攻法でダメなら裏の手もある

世の中は、正攻法や王道でものごとが進めばそれにこしたことはありません。
しかし、それだけではなかなかうまくいかないケースもあるのです。

先日、アジアのある国でビジネス展開を
行っている商社の方とお話しをした際に、
「ビジネスを進める際に、賄賂が必要になる場合があり、
それが苦痛でどうしたらよいでしょうか」と相談を受けました。

私自身は戦後の混乱期をよく知っていますから、
かつては日本でもそうしたことがあったケースをお話ししたところ、
相手の方は納得の表情をされていました。

もちろん、賄賂はよいものではありません。
それがどうしても嫌ならば、別の裏道、悪知恵があるかもしれません。

裏道、悪知恵というものがあることを知っていれば
別のアイデアが浮かぶかもしれないのです。

不良少年「銀座のバビイ」との出会い

銀座の写真

さて、戦後すぐで、一番有名になった不良少年は
「銀座のバビイ」でしょう。

彼は名前のとおり、銀座周辺を縄張りとしていて、

「PX」
(post exchange 進駐軍によって接収され、
アメリカ兵しか入れない売店のことです。
日本では当時貴重だったたばこ、
缶詰類、酒などの商品が売られていました)

となった和光の前で、
若いアメリカ兵を見つけるとお金を握らせて、
たばこや缶詰なんかを買わせて闇市で売ることをやっていて大変羽振りが良かったのです。

バビイとは拘置所に留め置かれたときに、
初めて会いました。

もののない時代というのにアロハシャツを着て、
こざっぱりとして品も良く、
小粋な様子はどこかの裕福な家の大学生のようでした。

しかし眼光鋭く、負けん気の強い面構えで、
どうもただ者ではないなという印象でした。

私が「どちらの方ですか?」と聞くと、
「銀座だ」と言うのですぐにバビイだと分かりました。

「あんたは?」「私は神田です」。

「あんたの噂は良く聞いているよ。
これから長いつき合いになりそうだ。よろしくな」という具合で、
それから交流がはじまったのでした。

不良少年の「あにい」同士のというのは、
大きな仕事となると人を融通し合ったり、協力関係を築いたものでした。

縄張り争いをするようなことは絶対にありません。

不良少年にも仁義というのがあるわけです。

私のテリトリーは京橋から秋葉原までで、
京橋より向こうは「銀座のバビイ」が、
また秋葉原より先の御徒町や上野には「上野のゲンタ」という不良少年の縄張りでした。

私の異名はというと「神田のボーヤ」で通っていました。
童顔だったので自然とそんな風に呼ばれるようになったのです。

この異名は不良仲間の間ではなく、警察にも知られていました。

ここではあえて述べませんが、
人様のご迷惑になるようなことも随分とやってしまいました。

改めてご関係の方がおられましたら、この場を借りて、
反省の気持ちを述べたく存じます。

(次回へ続く)

(8)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:裏社会に学ぶお金儲けの極意
本記事は 日本の健康産業の第一人者である 田中恒豊(たなかつねとよ)さん(故人)への 2014年頃からの長期インタビュー(インタビュー当時80歳代) を書き起こしたものです。 田中さんは、戦後の大きな時代変化のなかで、 日本...
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