(9)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:ピンチを切り抜ける観察力(1)

『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

今回は、少年院に入った田中さんが
感じたことを中心に書いています。

時代背景などもお含みのうえ、お読みいただければ幸いです。

多摩特別少年院

こんな暮らしですから、
トラブルは日常付茶飯事で警察のやっかいにもなり、
たびたび少年院にもお世話になりました。

東京の八王子に「多摩特別少年院」というものがあり、
不良少年の間では「多摩少」と略して呼ばれ恐れられていました。

「特別」の名前からご想像いただけるように
関東近郊の未成年の不良でも特に「ワル」が
集められていたのです。

八王子は今は拓けており環境の良い住宅街が広がっておりますが、
その頃はまだ宅地もほとんどなく、
野原や山が広がってて、
そういう場所だからこそ少年院があったのでした。

ある時、私もこの「多摩少」にお世話になることになりました。

昭和25年(1950年)、16歳のことです。

きっかけはささいなことでした。

映画館で足を投げ出している大学生に、
周りの迷惑になると注意をしたところ、
年下と見たのか激高し、刃物を取り出したのです。

もみ合っているうちにその刃物が相手に
刺さってしまい幸い命に別状はありませんでしたが、
警察沙汰となりました。

怪我をさせてしまったのは事実で、
相手に悪いことをしたなという後悔の気持ちがありました。

裁判となり、私がこれまでも
色々と警察のお世話になっていることから、
普通の少年院ではなく「多摩少」に行くこととなったのです。

少年院から「帰れ」と言われる

さて、少年院へ送られた初日のことです。

少年院の教官が私の経歴の書いてある書類を見て、
「お前は銀座のバビイと知り合いか?」と尋ねてきたのです。

「知っています」と答えると、教官は目を細め、実に嫌な顔をしました。

そして、「そうか、お前は少年院に入らなくていいから今ここから帰れ」
と言うのです。

現在であればそんなことは絶対にないでしょうが、
少年院側にも事情があったのです。

私の前に、銀座のバビイが多摩少に入り、

「俺はこんなところ3日で逃げる」

と大言したそうなのですが、
言葉の通りに本当に脱走をしてしまったということでした。

しかもタダ逃げるということではなく、
主要な設備を破壊していったそうです。

特別少年院ですから、警備も厳重で、
そのために不良少年から恐れられた多摩少ですが、
それでもその有様だったそうです。

後で聞いた話では、出入り口の鉄の門に、
洋服を何枚もつないでロープ状にしたものを結びつけて、
何人もで引っ張り、扉を壊して逃げたのだということでした。

もっとも「バビイならそれくらいやりかねないな」
とも思ったものですが。

私が入ったときは、
バビイの破壊した施設の修理がようやく終わった頃だったのでした。

入り口の教官は抑揚のない声で

「書類を見るにお前はバビイと同類だ。
どうせここを壊して逃げる心づもりだろうから帰ってくれ」

と言いました。

普通の不良少年であれば
喜んでその場から自分の縄張りに帰ったことでしょう。

けれども、私は妙なところで真面目にできており、
今回の傷害事件では一般人を怪我させてしまったことを
深く反省していましたので

「罪を償う意味でもここまで来たのだから、入れてください」
と言ったのでした。

教官もそうした反応は意外だったのでしょう。
「ふう」とため息を付くと、
「壊すのだけはヤメてくれよ」と
しぶしぶ中に入れることを認めてくれました。

今考えると教官と私の対応があべこべで
可笑しくなってしまうのですが、
その時の私は「大真面目」に少年院に入ったのでした。

少年院の初日での出来事

多摩少には大きな部屋が3つあり、
1部屋に6、70人の少年たちが入っていました。

ひとつの部屋の大きさは60畳ほどで、
外へとつながる大扉の近くに共同のトイレと水場がありました。

部屋それぞれに「部屋長」と呼ばれるリーダー格がいるのですが、
私が入るなり、3人の部屋長が顔を出し、

「兄い、よくお越しくださいました」

と迎えられました。

「神田のボーヤ」の名前は少年院でもよく知られていたのでした。

部屋長たちがわざわざ挨拶に来たのには、
私が有名であったことと、もう一つ理由がありました。

「兄い、申し訳ないが、
私が部屋長をしている間は逃げないで下さいませんか。
どうかよろしくお願いします」

と念を押すように言うのです。

つまり部屋長たちは模範生として早く出所をしたいから
「騒ぎなど起こさずに静かにしていてもらいたい」
というのが本音のようでした。

私はもとより逃げる気持ちはありませんでしたので
「分かったよ」と、その時は答えましたし、
反省していましたから逃げ出す気もなかったのです。

思いつめた少年たちの思い

挨拶が一段落した頃、
何人かの少年が思い詰めたような顔で、
私のところに来ました。

みな痩せていて、目の下には隈があり、
ここでの生活の苦労がなんとなく分かりました。

「あにい。ここは地獄です」

と一人の少年が言いました。

その辺りから私の「真面目な」少年院生活が
違った方向に動くことになるのです。

少年たちの話を色々と聞きましたが、
煎じ詰めると閉じこめられた空間での
「弱肉強食」だということが分かりました。

強い者だけが生きて、
弱いものはその日の麦飯すら取り上げられてしまう
という毎日なのだそうです。

保護、監視をするはずの教官たちにとっては、
少年同士の仲が悪い方が、
団結して逃げるような大きな問題を起こされないから、
自分たちに被害がなければ知らぬ顔。

そして、私のような有名人でなければ、
新人は必ずいじめられるということでした。

例えばこんな調子です。

新人が入ると部屋長が
「おーい水を汲んでこい」とコップを渡し共同の水場まで行かされるのだそうです。
そして水を汲んでくるとその途中途中で、
それぞれの部屋長が「お前こっち来い」といって
鼻水やらタンを入れる。

それを仕方なしに自分の部屋長のところまで持ってくると
「なんだ! これを飲ませるというのか。お前! 飲め!」
ということを何回もやるのだというのです。

多摩少に入るような連中です。
それぞれ一筋縄ではいきませんから、
そうやっていじめて、部屋長の力を見せつけて、
ガバナンスを利かせるのだろうということがすぐに分かりました。

反抗しようものならよってたかって痛めつけられて、
しかも密室ですから人間関係が極度に悪化しても逃げることができない。

ですから不良少年といえどもみな涙を流すわけです。

私が入ったその日も隣の部屋で
「こんなところなら死んでやる」
と窓枠に頭を何度も打ち付ける騒ぎが起きたほどでした。

私のところに話に来た少年たちに

「それで僕にどうしろっていうの?
いじめられている愚痴を言いに来たわけではないでしょう?」

と水を向けますと、だんだんと彼らの目的が分かってきました。

「実は兄いを男と見込んで
是が非でもお願いをしたいことがあるんです。

オレたちはこんな地獄みたいなところから
一刻も早く逃げ出したと思っています。

兄いが決心をして『脱走しよう』と
言ってくれれば、今いる全員が逃げることができます。

なんとかご決心を!」。

なぜ私ひとりが決心をすれば脱走ができるかは、
すぐにわかりました。

逃げるためにはここにいる少年たちの心を
ひとつにまとめ上げて決行をするリーダーの存在が不可欠だからです。

今、少年院のなかは部屋長も含め、
みなが疑心暗鬼になっていてまとまりがありません。

ところが私という有名人が来たことによって
脱走の光明が見えたというわけです。

その証拠に、私より前に逃げ出していた
バビイは少年たちの心をまとめ上げて、
あっさりと脱走をしてしまったのですから。

「決心をするのはいいけれども、どうやって逃げるの?」。

少年のひとりが
「それにはまず……」と彼の案を語り出したのでした。

その話を聞き、早くも二日目の晩には脱走することを決心したのでした。

自分が逃げたいというよりは、
他の少年たちが苦しんで、
相談しにきたことに義侠心を起こしたというのが本当のところです。

(次回へ続く)

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