(3)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:「我慢」と「忍耐」が失敗を成功に変える

積み上げられた石『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

本記事は
日本の健康産業の第一人者である
田中恒豊(たなかつねとよ)さん(故人)への
2014年頃からの長期インタビュー(インタビュー当時80歳代)
を書き起こしたものです。

田中さんは、戦後の大きな時代変化のなかで、
日本で初めてのフィットネスクラブを設立された方で
「日本の健康産業の第一人者」として知られています。

今回は、我慢と忍耐がテーマとなっています。
現代は、我慢や忍耐について正面から問われることは少ないと感じていますが、
時代背景などもお含みのうえ、お読みいただければ幸いです。

現在、大きな変化の時代を迎えていますが、
時代が動くときに、どのような判断を行うべきかといった
考察の参考になると考え、
ご関係者の方のご了解を得まして、記事を掲載いたしております。

毎週土曜日に更新の予定です。

第二次世界大戦のはじまり

私が6歳の昭和14年(1939年)には、
ドイツ軍がポーランドに侵入をして、ついに第二次世界大戦が始まります。

昭和15年(1940年)には「奢侈品等製造販売制限規則」が公布されて、
ぜいたく品が全て禁止となりました。

それに合わせて「ぜいたくは敵だ」の標語ができて、
街の電信柱やら壁などにポスターが貼られたり、看板が立てられました。

もっともいたずらで「敵だ」の前に
「素」の文字が書き足して「ぜいたくは素敵だ」
となっているポスターもあったりしましたが。

「英語は、敵性語だから使うな」と言われはじめたのもこの頃です。
プラットホームが「乗車廊」、野球のストライクは「よし」などと
言い換えられるようになりました。

まだ子供でしたから、英語はカタカナ語だと思っていました。
ですから、カタカナ語を使うことがどうして良くないのか不思議に思いましたが、
大人たちもそうしているようなので、
日本が戦争に勝つためにはそうしなくてはいけないのかなと思ったものです。

昭和16年(1941年)12月8日には日本が真珠湾攻撃を行い、
アメリカ、イギリスに宣戦し、太平洋戦争へと突入しました。

その日のこともよく覚えています。
ラジオで「本日未明、西太平洋方面において戦闘状態に入れり」と放送があって、
大人たちが大騒ぎをしていました。

「大勝利だ」と街ではみなが浮かれていたのです。
日本の攻撃が成功したのは、戦争開始直後くらいで、
その後は勝ったといえるものはほとんどないのですが、
その後何が起こるか、この時は誰も分かっていなかったのでした。

歌といえば軍歌。新聞には「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「一億一心」
などの言葉が並びました。

難しい言葉でしたが、
子供たちも学校でひとつひとつ教えてもらいますので意味は理解していました。

ラジオでは毎日「また日本軍が大勝利をおさめました」などと
アナウンスされていました。

もちろん現実には毎回勝利をしているわけではないのですが、
日本の軍隊は連戦連勝、とにかく強いと思いこんでいたのです。

生活必需品の不足

一方で生活必需品の配給性が本格化しました。
年齢や性別で一人当たりの配給料が決められたのです、
お米も自由に買うことができなくなりました。

石鹸やマッチ、衣料品などの生活必需品も、
点数制の切符が配られ、点数に応じた切符がなければ買えないような
仕組みになったのです。

たとえば、背広などの点数の高いものを買うと、
ほかの衣料品が買えないといった具合です。

しかし、子供にはそんなことは関係ありませんから、
遊びと言えば戦争ごっこ。
軍刀に見立てた竹の細い棒を振り回して、
手ぬぐいの軍服、ぼうしのヘルメットで装備をかため、
近くの空き地や公園などあちこち駆け回っていました。

現実の戦争はどうであったかというと、
初戦の真珠湾攻撃こそ成功しましたが、
その後はどんどんと戦況が厳しくなっていきました。

昭和18年(1943年)には、
戦況の激化に伴い六大都市の小中学校が閉鎖となりました。
六大都市というのは東京、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸のことを指します。

私が小学校の4年生の時でした。
メディアでの「連戦連勝」の報道とは裏腹に負け戦の現実が現れはじめた頃でした。

子供たちは学校の先生に引き連れられて集団疎開をしました。

爆弾がいつ落ちてもおかしくない六大都市から、全国に散らばったのです。

疎開先の宮城県鳴子温泉での経験

東京の下井草にいた私は宮城県の鳴子温泉へ行くこととなりました。

鳴子温泉は湯治の町でしたが、
湯治などとのんびりしたことは世間が許しませんでしたから、
町の旅館は、小学生のための疎開先として使われたのでした。

その頃には全国的に食糧事情が厳しくなっており、
疎開先で出される食事はほとんどすいとんです。

温めた汁に少量の野菜と小麦のだんごが浮かんでいるだけですから、
成長期の食欲を満たすものではなかったことはご想像いただけるでしょう。

子供たちはいつもおなかが空いていました。

しかし、そんな時代だからこそ、学んだこともありました。

ある時、食事の時間となり、私を含めた子供たちが大部屋に集められました。
窓側のひとつにすいとんがほんの少し多く盛られている膳があったのです。

もともと大して多くはない分量の食事ですから、ささいな差です。
しかしその膳を目聡く見つけた私は、迷わずにその席に行こうとしたのです。

その時に友人の荻君が私の制服の袖をひっぱりました。

「どうして窓側に行こうとするんだ? 僕らは廊下側の席のはずじゃないか」

「あそこの席は少し多いんだよ」

すると荻君はいつもの快活で明るいな様子とは打って変わって、
急に怖いような真剣な顔をしたのです。

「田中君。その考えは卑しい。僕らはまだ家があるし親もいるじゃないか。
 ここに来ているやつらのなかには、
家も焼かれて親も死んでしまったのが大勢いる。

 僕たちは帰ればなんでもあるんだ。ここは我慢しようよ」

その言葉を聞いた時に、私ははっとして衝撃を受けました。

そして、荻君の言ったことは全く正しく、
自分のことしか考えていなかった己の考え方をとても恥ずかしく思ったのです。

「ごめん、僕が間違ってたよ」。私は素直に謝りました。

それに対して、荻君は「君ならすぐに分かってくれると思ったよ」
と笑って応えてくれました。

そしてふたりでいつもの廊下側の席ですいとんを食べたのでした。

「我慢」と「忍耐」が失敗を成功に変える

この出来事によって、
私の人生のなかで「我慢と忍耐」がひとつのキーワードとなりました。

私のなかにひとつの中心軸ができあがった瞬間でした。

我慢と忍耐を教えてくれた荻君は、
お兄さんが荻昌弘という人で、戦後、映画評論家として長く活躍をしていましたので
ご存じの方もいらっしゃるでしょう。

テレビのロードショー解説で荻君のお兄さんが登場するたびに、
あの時代のことを思い出したものでした。

豊かな時代になると忘れてしまいがちな大切なこと、
すなわち「我慢と忍耐」が週末ごとに思い出すことができたのは、
その後の私の人生のどれだけプラスに働いたか分かりません。

世の中を生きていくうえで、あなた自身は勉強やビジネスの分野で努力をされていることと思います。

一方、自分のライバルになる人たちも努力をしているのです。

マラソンを見ていると良く分かりますが、
止まっている人を追い抜くのは簡単です。

でも走っている人を追い抜くのは並大抵ではありません。
走っている人を追い抜くには、日ごろからの「我慢」と「忍耐」の蓄積が必要になるのです。

「我慢」と「忍耐」というと、どうも古臭いものだと考えてしまうかもしれません。

現在の世の中は、無理をしたり、自分の望まないことを行うことは
非効率だと考えられています。

でも、たとえばビジネスは競争の要素が大きいのです。
勝つか負けるかの紙一重を分けるのは「我慢」「忍耐」という場合もあるのです。

我慢すべきときにそれができるかできないかは
成功と大きく関わっていると思います。

それに、「我慢」ができると、
短期的な視野ではなく長期的な視野で
ものごとを捉えることができるようになります。

「忍耐」ができれば、不遇な時代であっても、
大きなチャンスが来る時を待つことができるようになります。

私が健康産業で成功できたのも
この2つのキーワードによるところが大きいと考えています。

幼い頃に、そしうした貴重な経験と教えが得られたことは幸いなことでした。

(次回へ続く)

(4)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:父の死
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