今回は、東京大空襲の経験と、その後に気づいた
田中さんの大きな気づきについて語っています。
時代背景などもお含みのうえ、お読みいただければ幸いです。
父の死のショックと仏壇
父が亡くなったのは1月19日。49歳でした。
私が小学校6年生、姉は中学3年生のことです。
下の兄弟にはもっと小さい子たちがいました。
喪主は長男の私が務め、周囲の人々の助けを借りて、
ささやかな父の葬儀をなんとか終わらせました。
遺骨と位牌を自宅へと持ち帰り、手を合わせる毎日です。
姉もよく泣いていました。
東京・下井草にある自宅の周囲にはまだ高い建物がなく、
窓からは遠くのほうに富士山が見えました。
東京から富士山が見えたとは今の人には信じられないでしょう。
冬の空気は澄んでいて、一月の富士山はとてもきれいだったことを覚えています。
父親の名前が「富士松」といいましたので、
富士山の美しさが、別の意味で心にしみました。
一ヶ月ほど日課のように、机の上に置かれた位牌を拝んでいました。
しかしある時に、
「これまで位牌を拝んでいたけれども、
本当は仏壇と線香立てなど一式揃えなくてはならいのではないか」
ということに気が付いたのです。
私たち姉弟は親が死んだショックのために
一ヶ月も仏壇がないことに気が付かなかったのでした。
仏壇を買うことは長男である私の仕事にように思えました。
仏壇は日常品ではないので何とか買うことができたのです。
現在も上野浅草周辺では仏具屋さんが軒を連ねている通りがありますが、
戦時中から仏壇なら上野浅草が良いと言われていましたので、
香典としていただいたお金を持って出かけていったのです。
昭和20年(1945年)2月のことでした。
仏壇のご縁
何件か並んでいた仏具店のひとつに入ると、
そこの女将さんが驚いた様子で話しかけてきました。
中学にあがる直前のことで、
小学校6年生の子供が
仏具店に風呂敷を持って来たのですから何事かと思ったのでしょう。
「あなたお年はおいくつ? どなたかお亡くなりになったの?」
「小学校六年生です。お父さんが病気で死んでしまって。
お父さんとお母さんは離婚をしたので……」
と事情を話すと、女将さんは涙ながらに聞いてくれました。
「分かりました。では仏壇は買ってもらうけれども、
お鈴やロウソク、線香立てなんかのなかのものは
みんなおばさんからの贈り物として受け取っておくれ」
と言ってくれたのです。
当時は、ロウソクや線香も貴重で手に入りにくくなっていたので、
私自身がそんなことまでしてもらって良いのかと驚きました。
「なにがあっても生きて、生き抜くんだよ。
これからの人生で辛いことも、悲しいこともあるだろうけれども、
周りに誰か必ず坊やのことを助けてくれる人が現れるから。いいね」
と私のその後の人生を占うかのような言葉をかけてくれたのでした。
その言葉が父を亡くした私の心にとても響きました。
仏壇の中身をプレゼントしてくれた女将さんの気持ちもとてもうれしく
「本当にありがとうございます」
と言って小さな仏壇を風呂敷に背負ってお店を後にしたのでした。
仏壇を家に持って帰ってきて半月ほど後に、
その日がやってきました。
3月10日の東京大空襲
1月に父親が死んで、
2月に仏壇を買って、
それから3月10日のことです。
後に「東京大空襲」と呼ばれる出来事でした。
アメリカからの爆撃機B29が175機が来襲し、
東京の下町一帯に焼夷弾を雨のように降らせました。
焼夷弾にはゼリー状のガソリンがたっぷりと詰まっていて、
屋根や地面に落ちるとガソリンを周囲にまき散らしながら炸裂します。
可燃性の液体が燃えて広がっていき、
東京は文字通り「火の海」となったのです。
東京の屋根は1923年9月1日の関東大震災の教訓から、
多くの家が火災の影響の少ない瓦屋根に整備されていましたが、
焼夷弾は無惨にも屋根瓦を貫通しながら家々を燃やしていったのでした。
幸い自宅は無事で、
私たちが避難した防空壕も大事はありませんでしたが、
浅草・日本橋・本所そして上野の街も灰となりました。
その日は火災のために、なんと隅田川が熱湯になったのです。
水を求めて川に入った人の多くが亡くなったと聞きました。
以前から、空襲はあったものの、
B29がこれほど爆弾を落として、
東京の街を燃やしていくとは、誰も想像していなかったと思います。
文字にするとたった3文字の
「火の海」
ですが、とにかくすさまじいものでした。
何日か経ってから、
私はあの優しい女将さんがいた仏具店のことが気に掛かり、
上野まで足を伸ばしてみました。
もしかしたらお店が残っているかもしれない。
そうした思いからの行動でした。
上野の街はほとんどの建物が焼かれて、
灰舞う荒れ地が、見渡す限り広がっていました。
辛うじて数件の店がぽつりぽつりと残っていましたが、
私がお世話になった仏具店の周辺は何もなく全てが焼けてしまっていました。
「宿命」には逆らえないが、「運命」を切り開くのは自分
廃墟のようになった焼け跡に一人たたずんでいるときに、
頭のなかを駆けめぐった言葉があります。
「人間の力ではどうしようもない宿命というものがある」と。
空襲で亡くなられた方がいる一方、自分は幸いにも生き残りました。
生死を分けたのは、何だったのか今の私にも分かりません。
けれども、それは個人の力や努力の範疇を大きく越えたものだと思ったのでした。
しかし、同時に
「宿命には逆らえないけれども、運命を切り開くのは自分だ」
とも思いました。
考えれば、人は生まれたときから死ぬと宿命づけられています。
だからといって、日々生きることに努力をしない人はいません。
日々の努力が運命を切り開き、
それまでの人生では思いも寄らなかったものをもたらしてくれることもあるのです。
現在でも、自分の宿命を嘆く方が多くおられることを肌身で感じています。
たとえば「病気になってしまった」ということがあります。
確かに病気になってしまうのは、自分自身ではどうしようもない場合が多く、
今も苦労されている方も少なくないと思います。
私の父もそうしたことを思った一人でした。
でもそこで宿命をただ受け入れるのではなく、
今ご自分でできることをされてみてください。
病気であれば、少しでも快方にプラスになると、
自分自身が考えることです。
そうした小さな行動が運命を切り開いていていくケースがあるのです。
80歳となった私の手元に、
その時の仏壇が今もあります。
女将さんがくださった線香立てもお鈴もあるのです。
もし、あの日、あの時に仏具店に入っていなかったら、
きっと東京大空襲で燃やされていたでしょう。
仏壇を買うという行動が半月遅れていたら、
仏壇はもちろん手元に残るはずもありません。
人と人との一瞬の交錯や出会いが、
私の人生の所々に配置されていていることに気が付いたのはこの頃でしょうか。
自分の力ではどうしようもない宿命と、
自分で切り開いていく運命のふたつを意識した初めてのできごとでした。
(次回へ続く)