(2)『日本の健康産業の第一人者』田中恒豊さんが語る 人生の成功法則:心のあり方を決めれば人生が開ける

ハート型の葉っぱ 『日本の健康産業の第一人者』が語る 人生の成功法則

今回は「心」のあり方の大切さについて語られています。

現在、大きな変化の時代を迎えていますが、
時代が動くときに、どのような判断を行うべきかといった
考察の参考になると考え、
ご関係者の方のご了解を得まして、記事を掲載いたしております。

硝煙の匂いのする時代

私こと田中恒豊は昭和8年、東京の下井草に生を受けました。
私は現在(2014年)、80歳の年を迎えますのでちょうど80年前のお話です。

はじめに両親のことをお話したいと思います。

私の父の富士松は九州の地主の次男で早稲田大学で勉強をするために上京し、
大学卒業後は経理士と商学士として東京に事務所を構えていました。

経理士と商学士というのは、
今でいうところの税理士と経営コンサルタントを兼ねたような職業のことを指します。

クライアントには当時の大手企業が名を連ねており、
ビジネスマンとして成功をおさめていました。

母のみほは聖路加病院のキリスト教的理想と高邁な治療活動の精神に惹かれ、
聖路加看護大学を卒業し、聖路加病院に勤務をしていました。

聖路加病院は、現在も築地にあり、日野原重明先生でも有名な日本有数の病院です。

そんな父と母が出会い、結婚をし、ほどなく私の姉が生まれ、
それから私が生まれたのでした。

私の幼少期である昭和10年代頃は、
軍足の足音と硝煙の香りが、日常生活のなかにあるという今考えれば異様な時代でした。

私の生まれる少し前の昭和6年(1931年)に満州事変(柳条湖事件)が起こりました。

満州というのは現在の中国の東北にある地域のことで、
日本はここに関東軍と呼ばれる軍隊を配置していました。

この関東軍が中国の奉天付近の柳条湖で、
日本が経営していた満州鉄道を爆破し、
それを「中国からの攻撃」として、戦線の急拡大を行いました。

日本全体が大きな戦争へと突入するきっかけとなるのでした。

昭和7年(1932年)には日本の軍部が、
首相であった犬養毅さんが暗殺される五・一五事件が起こりました。
政党や財閥に不満を持つ軍人によるテロ事件でした。

軍部が恐怖によって政治を抑えるようになるのです。

そして昭和8年(1933年)には、日本が国際連盟を脱退します。
国際的な孤立化が始まりました。
日本が大きな戦争への階段をひとつひとつ登っているような出来事でした。

二・二六事件の記憶

昭和11年(1936年)に二・二六事件が起こりました。
私は3歳でしたがその時の様子を鮮明に覚えています。

「二・二六事件」というのは、青年将校によるクーデター未遂事件のことです。
1483人もの兵隊が参加し、首相の岡田啓介さん、蔵相の高橋是清さん、
天皇陛下の侍従長の鈴木貫太郎さん、内大臣の斎藤実さんなどが襲撃されたのです。

斎藤さん、高橋さんが殺される歴史に残る大事件でした。

二月二十六日に起きたためにこのような名前が付けられています。

後に知ることですが、「二・二六事件」は朝の五時にクーデター騒ぎが起こり、
五時半に天皇陛下の知るところとなります。

その日の朝の8時頃、私がちょうど朝食を食べる時間に、
自宅のあった下井草の前の道を沢山の兵隊が歩いていきました。

私の家は庭が広かったのですが、その周囲を取り囲めるくらいの人数でした。

記憶では重たそうな装備を運んでいた兵隊もいて、
ピリッとした恐ろしい雰囲気のように思いました。

二月の寒さのなかで雪も積もっていましたから、
兵隊たちはコートを着て帽子を被り、白い息を吐きながら、
無言で足早にどこかに向かっていきました。

兵隊が履いている軍靴というのは、革でできていて底が鉄などで補強してあるために、
雪道を歩くとザクザクと音がして、アスファルトにあたるとカツカツと鳴るのです。

ひとりふたりでしたら音は大したことはありませんが、
何百人もの兵隊が無言で隊列を組んで移動をすると規則的で無機質な音だけが道に響き、
異様な雰囲気を発していました。

兵隊たちは二・二六事件によるクーデター騒ぎを知った軍の上層部が、
政府の要人を守るために派遣されたのでした。

大人たちの話では、荻窪に政治家の近衛文麿さんのお屋敷があるから
そこを守備するために行ったのではないかということでした。

「ものの本」では近衛さんは襲撃を受けていないようですから、
それが守備兵隊たちのお陰なのか、
近衛さんが襲撃される予定ではなかったのかは分かりませんが、
兵隊の靴の音と、大人数の兵隊の圧力、白い息の印象が妙に生々しく今も頭に残っています。

心のあり方を決めれば人生が開ける

昭和12年(1936年)日本は中国と戦争状態となりました。
日中戦争です。日本経済は非日常の色合いを深め、
国民生活よりも戦争を優先とする戦時経済体制が強化されはじめた頃です。

翌、昭和13年(1937年)には、日本はドイツとイタリアと同盟を結びました。
日独伊三国同盟です。世界中が大きな戦争の準備をするかのようでした。

この年、私は5歳となりました。
そして父と母が離婚という決断をした年でもありました。
夫婦の間の本当のところはいかに子供であろうとも分かりませんが、
母の仕事と家庭に関する考え方が、父のそれと相容れなくなったことが原因のようでした。

母親がいないことで、幼稚園の周囲の大人たちは気の毒がりましたが、
私の中では「片親で何が悪いのか。立派に育ってみせる」と思ったものでした。

そうしてもうひとつ。

ある程度の歳となった時に決めたことは
「母親がいないことについて絶対に卑屈にならない」ということでした。

日本人は他の人と違うことを嫌う傾向があるように思います。
自分が周囲と違うことに劣等感を持ったりする人もいることでしょう。

しかし、そんなことは自分の心のあり方を決めてしまえば何の問題にもならないのです。
私は今
「環境が人を変える。その環境は人が作る」と考えています。

環境というのは心のあり方も含まれます。
人間は弱い生き物です。なにかトラブルや軋轢があった時に、
「どうして自分だけがこんなことに」と考えてしまいがちです。

しかし、何かしらのマイナス的要素を持っていない人などいないのです。
そのマイナス的要素に飲み込まれてしまうか、
あるいは自分で心を決めて生きていくかで大きな違いとなって現れてきます。

もし「こうであればいいな」という条件があれば、
「こうあると決めた」と決心をしてみてください。

たとえば「年収●千万になると決めた」
「自分は仕事で世界に通用するような一流になる」といったことです。

その決心だけで、人生には必ずなんらかの変化が訪れます。

結果的には「決心」したことと異なる場合もありますが、
決心前の延長とは違う「開けた」人生になることは私が請け負います。

人は心のあり方を決めた時に、人生が大きく動きます。
私の80年の人生も実際にそうだったのですから。

(次回へ続く)

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