今回は、お父さんの死がテーマになっています。
結核という病気の恐ろしさが伝わってきますが、
昨今のコロナウイルスの状況にも相通づる部分があるかもしれません。
「職業選択の自由」という意識がなかった時代
昭和19年(1944年)頃になると食糧事情はさらに厳しさを増し、
食料の配給は全く追いつかず、商店の営業は形だけで、
配給以外の商品を扱う闇取引が日常生活を支えていました。
昭和20年(1945年)。小学校の6年生になりました。
鳴子温泉の学校での日々の話題はその後の進路でした。
小学校を卒業すると皆、東京に戻ることになっていたからです。
疎開先では厳しい生活でしたから、東京に戻り、
その先の進路に希望を見いだそうとしていたようにも思います。
「お前は卒業したら、どこに行くんだ?」
「ぼくは陸軍に行く」
「それなら幼年学校か。開成中学か成城中学だな。俺は海軍に行くよ」
「そうか、兵学校だから海城中学だな」
この会話でお分かりになるでしょうか。
つまり軍人となることは大前提で、
陸軍にいくか海軍にいくのかの違いということだけしかなかったのです。
職業に選択肢があるなどとは思ってもいませんでした。
今のように医者や弁護士になりたいというような友人は周囲にひとりもいません。
男の子は軍人になってお国のために働くという教育が骨の髄までしみていたのでした。
私は海軍に憧れがあって、
新聞でも雑誌でも海軍の特集があると欠かさずに読んでいました。
家には「江田島」という兵学校の本があり兵学校の様子や
生活がありありと想像できていたので、
中学校は海城中学へ進学し、
ゆくゆくは江田島の海軍の兵学校に行き、
海軍軍人として活躍することを心の中で決めていました。
海城中学は海軍に憧れる子供たちが目指す学校であったので難関でしたが、
私自身は成績も良く試験にも自信があったので、
きっと海城中学の制服を着れるだろうと思っていたのです。
父親の死
小学校卒業により、東京に戻り、
父や姉、他の兄弟たちと久しぶりの再会を喜びました。
しかし、二年ぶりに会った父の姿はずいぶんと痩せたように感じられました。
食糧不足の時代のことですから、痩せたことを
特段不思議には思わなかったのですが、
ある時に血を吐いて倒れたのです。
医者の診断では肺結核を発症して、腸結核も併発しているということでした。
結核という病気は、当時有効とされる治療法がなく、
不治の病とされていました。
ですから結核イコール死を意味していたのです。
父は血を吐いて倒れてから、一週間ほど入院していましたが、
結核は人に移るというので、私たち姉弟は、面会もままならず、
そうこうしているうちに父は亡くなってしまったのです。
結核がそれほど恐ろしい病気ではなくなったのは戦後のことです。
ペニシリンという抗生物質が国内に出回るようになったためです。
もうしばらく父が持ちこたえていれば状況は変わっていたかもしれません。
父が亡くなったのは1月19日。49歳でした。
(次回へ続く)